置賜あれこれ 小松豊年獅子踊
第1話「小松豊年獅子踊」
豊年獅子踊は、平安時代に起源を持つとされ、古くから伝えられてきました。
現在は、毎年8月16日と27日の2日間、川西町内の各所で踊りが披露され、16日は「大光院」、27日は「諏訪神社」で五穀豊穣を祈願して奉納されます。
また、毎年8月中旬に開催される「かわにし夏まつり」でも披露されています。
3匹の立ち獅子による躍動感溢れる踊りと、華やかな衣装をまとった花笠や早乙女の舞、そして牝獅子が火の輪をくぐる「狂い獅子」の場面でクライマックスを迎えます。
本物の火の輪をくぐり抜ける獅子踊りは、実は小松豊年獅子踊りだけで、その豪快なシーンを写真に収めるために、毎年多くのカメラマンが集まります。
そんな豊年獅子踊りは山形県無形文化財にも指定されています。
今では川西町の貴重な文化財であり、観光資源となりました。
第2話「小松豊年獅子踊の誕生」
小松豊年獅子踊の誕生は、平安時代初期にさかのぼります。
当時、徳一上人(とくいつしょうにん)という僧侶が、都市部での法論を理由に東国へ流れ、仏教を民衆に説いてまわっていました。
徳一上人は、現在の置賜公園に庵をむすびました。
その際に、里の人々が上人へ恩を報いるために始めたのが、小松豊年獅子踊とされています。
上人はこの後、高畠町亀岡に大聖寺を開山。
地域の人々は小松の獅子踊りを習い、踊っていき、近隣に広がっていきました。
小松の獅子踊りが元祖の印として、小松の獅子は腰にしめ縄風の回しを付けるようになったといわれています。
徳一上人の時代の後、空海の弟子である真済僧正(しんぜいそうじょう)によって大光院が開山され、真済は、その地蔵堂に空海御作の地蔵大士を本尊として祀りました。
その地蔵堂の前で、今でも8月16日に獅子踊りが奉納されています。
第3話「小松豊年獅子踊の伝承」
小松豊年獅子踊は各地に広まり、川西町にゆかりのある戦国武将、片倉小十郎や、原田宗時が伊達政宗の前で踊りを披露したという記録も残っています。
しかし、江戸時代に上杉鷹山公の大倹約令により、不作の年に踊ることが禁止され、豊年の年のみに踊るようになりました。
このことから、「豊年」の名が付き、正式に「小松豊年獅子踊」と言われるようになりました。
大正2年頃には、伝統文化への関心が薄れる風潮となり、衰退。
昭和の戦争期には一度消滅しました。
復活したのは、戦後昭和24年。しかし残念ながら資金難となってしまい、再び消滅。
その後、数々の関係者の奮闘により、昭和29年に再び復活を遂げました。
昭和55年、山形県指定無形文化財に指定されました。
第4話「踊りについて」
小松豊年獅子踊といえば、3匹の獅子が特徴的です。
獅子の頭は全て黒色で、衣装は牡獅子が紺色、牝獅子が橙色、供獅子が黄色です。
その獅子達を取り囲むように花笠を被って太鼓を鳴らす囃子達が登場します。
囃子は、花笠、仲立ち、早乙女と言い、獅子は囃子の笛や太鼓の音に合わせて踊ります。
踊りには、花に酔い火に狂う様子や農作業の様子が取り入れられています。
ち主要演目は「前の庭」「中の庭」「末の庭」があり、火の輪をくぐるシーンは「中の庭」です。
これら3演目を全て披露すると時間がかかるため、普段は「中の庭」のみの披露が多いです。
火の輪をくぐるのは牝獅子です。
子獅子がさらわれ、狂った母獅子の様子を表現しています。
本来火を嫌うはずの獣が、子供どもを思い勇敢に火へ立ち向かう姿が描かれています。
第5話「小松豊年獅子踊に関わる人達」
まず小松豊年獅子踊の保護や伝承は「小松豊年獅子踊保存会」と「小松豊年獅子踊会」中心に行われています。
小松豊年獅子踊会は、獅子踊りを踊る団体で、
小松豊年獅子踊保存会は、道具や備品の修理修繕、費用の協力などで踊会の活動をバックアップしています。
この2つの団体を中心として、公演に向けて準備や練習をしています。
踊会は、毎年夏に練習しています。
川西町立川西中学校の郷土芸能クラブも取り組んでいて、中学校の夏休みが始まってから8/16の披露に向けて、踊会は中学生への指導とともに練習しています。
中学生は、8/16は大人と一緒に踊り、学校での合唱祭には全校生徒の前で披露しています。