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置賜あれこれ 高畠に伝わる民話

第1話「犬の宮」

高畠町高安にある犬の宮・猫の宮という2つの神社は、お互いに隣接しています。

それぞれ、愛犬・愛猫の供養と健康祈願として、写真や首輪、ペットの遺品などを奉納して供養を願う人々が多くおりました。

犬の宮に伝わる民話は、奈良時代の草創期、和銅年間(708年~715年)の話と言われています。

当時、高安村では年貢を納めずに田畑を耕し生活していました。

しかしある年のこと。

都の役人が村に来て、年貢の強制取り立て、更には娘を都の役人に差し出せというのです。

役人は、「このことは、甲斐の国の三毛犬、四毛犬には伝えるな」と言って立ち去りました。

村人たちは、大変困り、悲しんでいました。

ある時、道に迷った盲目の法師が、日も暮れ疲れを感じたため、一晩止めてくれと村人に頼みました。

法師は、甲斐の国の上九一色村に鎮座する八代郡宝性大神へ行き、2匹の犬を村に連れてくるよう話し、村を去りました。

さっそく村人たちは、役人を酒の席に招待して、たくさんお酒を飲ませました。

やがて酔っ払ったのを見計らって、三毛犬と四毛犬の犬をその席に放つとその場は大乱闘となりました。

しばらくして騒ぎが収まった頃に酒の席に行ってみると、そこにいたのは役人ではなく、子牛ほどもある2匹の大狸とその仲間の狸だったそうです。

そしてその傍らには、傷ついた三毛犬と四毛犬がいました。

村人たちは、三毛犬と四毛犬の手当をしましたが、2匹とも間もなく死んでしまいました。

その後、再び法師が現れ「この村を救った2匹の犬を村の鎮守とせよ」と告げました。

それによって2匹の犬を祀ったのが、「犬の宮」だと伝えられています。

2話「猫の宮」

これは犬の宮の話から、およそ70年後のお話です。

高安村には、信心深い庄屋の庄左衛門が妻と2人で住んでいました。

2人には子どもがいなく、猫を飼っていましたが、なぜかいつも病気ですぐに死んでしまうのです。

今度こそは丈夫で健康な猫を授かるようにと、2人は観音様に祈りました。

ある夜のこと。

観音様が夢枕につき「猫を与えるから大切に育てよ」というお告げをします。

そのお告げ通りに2人は猫を授かり「玉」と名付け大変可愛がっておりました。

ただ不思議なことに、どこに行くにも傍らを離れず着いてきて、天井をにらみ、形相を変え異常な鳴き声を発するようになりました。

あまりにも異常な行動に気味が悪くなった庄左衛門は、つい刃で玉の首をはねてしまいました。

その瞬間、はねた首は飛んでいき、天井裏に隠れていた大蛇の首根っこをくわえたのです。

首は天井から落ち、大蛇は死んでしまい、切られた玉の頭はいつの間にか消え、胴体だけが残りました。

その後、庄屋夫婦の枕元に観音様が老僧の姿で現れ、こう言いました。

「この大蛇は、70年前、この地の人々を苦しめたため、犬の宮に祀られている三毛犬、四毛犬に退治された大狸の魂が蛇に乗り移ったものである。それが今また悪さを働こうとしていたので、猫に姿を変えて2人を守っていたのだ。」

それを聞いて驚いた庄屋夫婦が持仏堂を開け、中の観音像を見ると、なんと像の首元には、まだ乾いていない血が付いていました。

庄屋夫婦は猫を手厚く葬り、そこを「猫の宮」と名付けました。

また、猫を飼っていた庄屋の先祖は、70年前に盲目の法師の命を受け、甲斐の国に2匹の犬を借りてきた人物と言われています。

この犬と猫の伝説は、3世紀続いた律令時代に、中央政権の不本意な政策に抵抗する村人の姿を犬や猫に託した物語で、のちに伝説が絡んで2つの神社が建立されたものではないかと考えられます。

第3話「ぼたん姫伝説」

高畠町泉岡にある小高い山頂には、安産の御利益があるとして有名な子易明神様があります。

昔から安産祈願として多くの方がお参りしていて、無事出産するとお礼参りとして「よだれかけ」を奉納しています。

祭礼は毎年8月19日に行われ、昔は今よりも盛大でにぎやかな祭りだったといわれています。

ここに残る由来が「ぼたん姫の伝説」です。

昔、室町時代、屋代郷の一本柳というところに、浜田大膳安利という立派な殿様が住んでいました。

殿様夫婦はなかなか子どもに恵まれず、亀岡文殊様に七日七夜一心不乱にお参りしました。

そして七日目の夜、夫婦は同じ夢を見ました。

紫の雲の中から唐獅子に乗った文殊菩薩が現れ、手に持った満開のボタンの花で夫婦を撫でたのです。

その後まもなくして、奥方は玉のような女の子を授かりました。

夢の中で、牡丹の花で撫でられて生まれた子なので「牡丹姫」と名付けました。

牡丹姫はその名の通り美しく聡明で気立てのよい娘に成長。

ますます美しくなった姫には、方々から結婚の申し込みがありました。

牡丹姫が16歳のとき、二井宿の殿様と竹の森の殿様とで、姫を巡り争いが起きそうになりました。

牡丹姫は進む道を教えていただこうと、亀岡文殊様に訊きに行ったのです。

すると文殊様から「心配するでない、二井宿の殿に行け」との御告げがあり、二井宿の殿様 志田義次のお嫁になって姫も里人も大変幸せになりました。

その3年後、めでたく牡丹姫は子どもを授かりました。

お産のために二井宿から一本柳の実家に帰る途中、泉岡まで来たところで急に産気づいてしまいました。

あまりの陣痛の苦しさに、近くの岩にしっかりと取り付き「子供の命は助けてください」と亀岡文殊堂の方に向かってお祈りをしました。

この祈りが通じ男の子が生まれましたが、牡丹姫は帰らぬ人となってしまいました。

人々はこれを憐れみ、祠を建て、その霊を弔ったのが子易明神のはじまりと伝えられています。

第4話「松川の河童伝説」

高畠町糠野目地区は、かつて最上川の最終船着き場として、港町であり山形県の水運拠点として栄えた歴史があります。

特に水難に関わる民話や伝説が数多く残されていてます。

代表的な「河童の詫び証文」は、伝説とともに実物が現存するという全国的にも珍しい話です。

むかし、最上川上流、松川の先に梓川というきれいな川がありました。

その近くには庄屋があり、かわいい一人娘がおりました。

しかしある時、娘の顔色が悪く、元気もなくなってしまいます。

母親が心配して医者に診てもらうことにしましたが、どこも悪くないと言われます。

心配した庄屋が町の巫女に相談したところ、

「これは河童に術を掛けられているから、高寺の和尚様から呪文を唱えてもらうとよい」

といわれ、庄屋は村に飛んで帰り、高寺の和尚に呪文を頼みました。

和尚様は「娘は河童の子どもを身ごもっている。わしが呪文で河童を呼び出し懲らしめてやろう」と言いました。

そして和尚様が呪文を唱え始めると、ざざーっと裏の川の水が減り始めました。

和尚様は大声で

「庄屋の娘の術を解き、二度と人間に悪いことをしてはならぬ。明日まで約束する証文を持ってこないときは、川の水をからしてしまうぞ。わかったら娘を元に戻せ。」

と言いました。

すると、川から苦しそうな声で

「証文は明日の朝まで持って行く、二度と悪いことはしない」

と聞こえてきました。

そして娘は、河童から掛けられた術が解け、もとの元気な姿に戻りました。

次の朝、和尚様が山門に出てみると、一巻の河童の「詫び証文」が置いてありました。

高畠町のある寺にはこの詫び証文が残っているといわれています。

以来、このあたりで河童のいたずらはなくなったといわれています。

ところが、今度は糠野目の松川で馬方が馬を洗っていると、馬がずんずん沈んでいくということがありました。

馬方が力いっぱい引き上げると、しっぽに河童がくっついていました。

馬方は怒って「いたずらする奴は殺してやる」というと、河童が「傷薬の作り方を教えるから許してくれ」と必死に謝るので、馬方は「もういたずらはしないという証文を持ってこい」といって河童を離してやりました。

次の朝、馬方の家の前には、傷薬の作り方と河童の文字で書かれた証文が置いてありました。

その証文は、「河童証文」といって今でもある家に残されているといわれています。

現在は、「地域おこし事業」として平成12年から毎年8月に「まほろば河童まつり」が盛大に開催されています。

第5話「三人の女亡霊と三彭消除塔(さんぼうけじょとう)」

高畠町の塩森地区に代々続く金蔵寺というお寺があります。

江戸時代、そこに六世白蓋元瑾(はくがいげんこん)という和尚様がいました。

和尚様は、元文4年(1739)石崎地区から芦垣馬頭観音堂に向かう参道の入り口に日輪月輪の石塔を建てました。

ところが石塔を建ててからというもの、うす暗くなる頃に塔の周辺にキレイな女性の亡霊が3人出没し、通行人や参詣者に悪さをするようになりました。

村人は怖がり、和尚様に亡霊が出ないようご祈祷をしてもらうことにしました。

和尚様は三日三晩 仏法を唱え、亡霊を鎮めることができました。

そして亡霊が再び姿を現さないよう、村人たちは寄進を募って、石塔に「三彭消除塔」と刻み開眼供養をしてもらいました。

それ以来、亡霊を見たという者は現れませんでした。

なぜ亡霊が出たのか。

三彭とは庚申信仰に関係します。

和尚様が日輪月輪の石塔を建てたのは庚申講を祀るためでしたが、庚申講の主神である青面金剛の像や「青面金剛供養塔」と彫りませんでした。

このことに青面金剛の弟子であるショケラが怒ったことが原因だったのです。

ショケラは、上半身裸の女性の姿をしていますが、以前人間に悪さをしてばかりいたため、青面金剛に髪の毛をつかまれ、足は木に絡ませられ、身動きができない状態になっていました。

身動きが取れないショケラは、一緒にいる三匹の猿の体を借りて3人の女性の亡霊となって、通行人や参詣者に悪さをしていたのです。

石塔に彫るべきものを彫っていなかったために開眼供養ができていなかったのでしょう。

「日輪月輪と三彭消除塔」と彫った石塔は、今でも同じ場所に残っています。

石塔には「元文四年塩森村」と刻まれています。