置賜あれこれ 置賜三十三観音
第1話「はじめに」
三十三観音とは、経典「法華経普門品」の節、三十三身に基づいて、欲信の観音を33種並べたものです。
三十三観音巡礼を考える時、その歴史を把握すること、また関西地区を中心とした西国巡礼や、関東を中心とした坂東巡礼、さらに四国遍路との関係も視野に入れておくことが大切です。
日本における観音経の信仰は、7世紀以前と推測されていますが、詳しいことはまだ分かっていません。
山形県でも、今年から3年連続で「山形出羽百観音」をご開帳しています。
今年は、庄内三十三観音がご開帳、来年は置賜三十三観音、再来年は最上三十三観音がご開帳となります。
やまがた観光情報センターでは、3年分のパンフレットを作成するなど力を入れているということです。
置賜三十三観音巡礼の歴史を遡るだけの資料は見つかっていません。
キリスト教やイスラム今日における巡礼と日本における巡礼は異なるものであるといわれています。
第2話「置賜の三十三観音」
平成25年の置賜民俗学会で「置賜三十三観音信仰の今」と題したシンポジウムが開かれました。米沢女子短期大学の原先生の講演や、パネリストの皆さんの話によると、
庄内や最上の三十三観音巡りは盛んなのに対し、置賜は地味でその存在もあまり知られていないということでした。
置賜の関係者は危機感を持って、もう一度置賜三十三観音信仰を復活させようと運動を繰り広げているようです。
日本の巡礼は、本来は参詣が正しいといいます。巡礼には2種類あり、坂東巡礼や西国巡礼、置賜三十三観音のような本尊巡礼と、四国遍路のような空海ゆかりの地を巡るものがあります。
シンポジウムでは、
同じ山形県内の三十三観音でも、庄内や最上は別当会や札所会があるのに対し、置賜は連携する組織がなく参拝者も少ないこと、
全国には500位の観音霊場があるのに比べ、置賜の受け入れ態勢はその3分の1程しかないこと、
置賜三十三観音は400年もの長きにわたって護られてきたが、今後は問題点を整理して巡礼者の立場に立って受け入れるようにしたい、
御朱印を受けたりご開帳をしたりするのは、季節を選ばない観光資源であるため、今後多くの方々に認識いただきたいなどという旨の話が出されました。
第3話「法華経」
「観世音菩薩普門品」の一説では、三十三身に基づき観音菩薩が衆生をすくうため、その人に合わせて33の姿になって現れると説いています。
33という数字ははっきりと登場していないようですが、変化する姿を数えると33になるそうです。これが三十三観音巡礼の基盤になっているということです。
観音様もうでは、祈る人の願いに寄り添い、33の姿になって救うとされています。
これにちなんで、33の観音像をお参りする巡礼が古くから行われてきました。
山形県には「出羽百観音」があり、詣でる人の願いもそれぞれ。詣で方も百通りの方法があります。観音様を巡り、いで湯を楽しみながらゆっくりと自分を見つめる巡礼もよし、大切な人と心の繋がった巡礼もよし、バスなどのツアーで同じ目的の友人、知人と和気あいあいとおしゃべりをしながら巡礼するのもまた一考。百人百色の方法があるのです。
第4話「置賜三十三観音の構成」
宗派別札所数(合計33ヶ寺)
曹洞宗の寺院・・・13ヶ寺
真言宗の寺院・・・14ヵ寺
新義真言宗・・・2ヶ寺
天台宗の寺院・・・4ヵ寺
本尊の構成
聖観音・・・17ヶ所
十一面観音・・・8ケ所
千手観音・・・6ヶ所
馬頭観音・・・2ヶ所
管理形態については、ほとんどが寺院で管理していますが、廃寺になったり無住職になったりしたため、現在は地区や個人で管理している観音様もあります。
1番から33番までの札所についている順番については、どういった経緯で順番がついたのかは現在も分かっていません。
第5話「巡礼の心と人間模様」
巡礼は、観音信仰が盛んになった平安時代中期から修験道や僧たちの修行としてはじまり、やがて布教の方法の一つほして巡礼が進められるようになり、江戸時代になって庶民に普及して広まったと言われています。
今からおよそ400年前、この地をおさめた米沢藩の重臣 直江兼続の後室 お船の方は観音信仰に篤く、領地内で観音巡礼ができるよう、33の霊場を定めたのがはじまりといわれています。
本格的な巡礼の姿は真っ白い「おいずり」(白装束姿)で、金剛杖をついて回り、般若心経やご詠歌を詠い、御朱印を頂いて次の札所に移っていきました。
山形県は「出羽百観音」として、全国で唯一県内だけで百の観音様を巡ることができる県です。
今では、交通手段として乗用車やタクシー、また旅行会社などのツアーで回る方がほとんどですが、今でも徒歩で巡礼をされる方や1番札所から順番に巡礼をして御朱印を押してもらう人など様々のようです。