置賜あれこれ 米沢藩の水あれこれ
第1話「猿尾堰と御入水堰」
関ケ原の戦いで敗戦した西軍の上杉藩は、120万石から30万石に減封され、会津若松から米沢に移動してきました。
減封されながらも、家臣のリストラをしなかった上杉藩は、大膨張してしまいました。
慶長7年(1602)直江兼続が、米沢城下町の整備を始めました。
真っ先に取り掛かったのが、家臣団の生活のための水を確保すること。
そのためにできたのが、猿尾堰と御入水堰です。
御入水堰
慶長7年に早速着工。場所は、現在の芳泉町から少し南、松川西岸です。
堰上げされた水は、城内に向かって流下させます。七軒町からは、米沢城下に配水され、主に生活用水として使用されました。
御城に入る水なので「御入水」と敬称されたといわれています。
猿尾堰
米沢市南部、李山地内の松川の水を堰上げし、掘立川を通して南原とその周辺地域の灌漑用水や生活用水としました。
兼続は、林泉寺西側からの掘立川は、複断面水路としました。
複断面水路とは、いざ戦いになった時に堰止めをして水位を上げ、水路幅を約25mに広げ、堀にしてしまい敵の侵入を防ぐものです。
江戸時代の米沢の城下町は、本丸、二の丸、三の丸を三重の堀で囲む、美しい水の都でもありました。
その水を満たす役割を担ったのも、猿尾関、御入水堰だったのです。
第2話「帯刀堰と木場川」
帯刀堰は、米沢城下の西側を流れる鬼面川を堰止めし、その河川を灌漑用水、生活用水として利用するために作られたものです。
工事は、慶長15年(1610)に始められ、3年後に完了しました。
帯刀堰で堰上げされた水は、木場川を経由していた米沢西部の農業用水、生活用水として使われました。
工事の際には、武士たちが刀を腰に差して労役に従事したことから、これを「帯刀堰」と言われるようになったといいます。
また、これらの川は、木流しの川でもありました。
鬼面川上流は、大樽川、小樽川、その流域は、田沢、簗沢、綱木などの地域です。
冬季になると、それらの地域から流された薪材は、帯刀堰まで流れ着きます。
そこから木場川に流し込まれ、城下内の木場町で木上げされました。
木上げは若者たちがふんどし一つで行い、腰まで水につかり薪材を持ち上げ、かぎ持ちがそれを受けて陸に上げるという力仕事でした。
木上げされた薪材は乾燥され、米沢城下町に生活する人々の貴重な燃料として使われました。
また、流域の農家にとっても山の木は安定した収入源にもなっていましたが、時代が変わり、木上げは昭和12年(1937)に終了します。
第3話「地蔵川と下水の管理」
地蔵川
米沢城下内に流れる地蔵川は、御入水堰から分水され下水道として使用されていました。
ちょうど、現在の南米沢駅南側がその分水点です。
当時は、排水を用水路に流すことが禁止されていましたが、地蔵川は下水路として特別にそれを認められていました。
地蔵川は、はじめ南米沢駅近くの紺屋町を流れます。
染物屋の町だった紺屋町では、染料を流すのに役立ちました。
商人の町であった大町周辺には銭湯があったため、この排水も地蔵川に流されました。
地蔵川はさらに北に流れ、立町の入り口で分流し鍛冶町や鉄砲屋町に入ります。
そこでは、金物の加工による廃水も地蔵川に流すことができました。
現在の九里学園高校の東の通りには「武者道」が通っていますが、地蔵川はそれに並行して北に向かって流れています。
その地域の地蔵川には、江戸時代の石積みがそのまま残っていて貴重な遺跡となっています。
第4話「黒井半四郎の黒井堰と穴堰」
黒井堰は、上杉鷹山時代に作られた農業用水路。
堰は上堰、下堰、洲島堰からなり、総延長は32kmにいもなります。
この大工事を計画したのは、若くして測量学や当時の数学にも精通していた黒井半四郎忠寄です。
黒井は、藩の財政を司る勘定頭に抜擢され、財政再興を目指す鷹山を支えることになったのです。
寛政7年(1795)、上堰の工事に着手。
上堰は、米沢市窪田町の千眼寺裏の松川から水を堰上げし、途中松川の大樋を渡り、赤湯方面の水田を潤します。
寛政8年(1796)、下堰の工事に着手。
下堰は、鶴巻から取水し、沖田村で分水、砂塚、梨郷、俎柳などの地域に流下させます。
上杉鷹山と、当時の藩主であった上杉治広は堰の現地に出向き、水が糠野目から高畠、赤湯、梨郷まで流れることを確認し、黒井堰と名付けました。
寛政11年、飯豊山中の穴堰工事に着手しましたが、黒井はこの冬に亡くなりました。
穴堰は、その後、黒井の弟子たちによって完成され、長さは105間、190mにもおよび、その水は川西、飯豊を潤しました。
昭和41年まで使用されましたが、昭和42年の羽越豪雨以降は、白川ダムが建設され、穴堰は役割を終了しました。
第5話「最上川舟運」
元禄5年(1692)、上杉藩京都御用商人 西村久左衛門は、効率よく米沢藩の米を江戸まで運ぶには舟が良いと考え、米沢藩に申し出ました。
許可を得た久左衛門は、総工費を17,000両と見積もり、全額を自費で工事に取り掛かったのです。
元禄6年(1693)、6月に工事が開始されました。
工事は渇水期に限り進められ、黒滝の西半分を幅7m、深さ1mで削り取り、舟道を作る作業が続きます。完成したのは翌年の夏でした。
黒滝が開発されたことによって、長井には宮舟場が設けられ、米や青苧を保管する蔵も建てられ舟場の位置が整えられました。
また、国道13号、糠野目橋の右岸堤防には「最上川最終船着場跡」という案内があります。
この舟場を描いた絵図には、黒井堰の大樋も一緒に描かれていて、上杉鷹山の藩政時代の頃に作られたのではと推測されています。