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置賜あれこれ 原田城

第1話「原田城という場所」

原田城は、犬川南岸の東へ伸びた丘陵に築かれていて、現在は置賜公園として整備されています。

築城年代ははっきりしていませんが、天文年間(1532~1555)に伊達家の15代当主 伊達晴宗が築いたといわれています。

現在は原田城址と呼ばれていて、堀切で区画された東西二郭で構成されています。

西が本丸、東が二の丸とされ、二の丸には「真済僧正入定の地」として伝えられている場所があり、そこに五輪塔があります。

第2話「原田一族について」

原田城の主人であった原田氏は、平安時代の九州大宰府に流された菅原道真の子孫であるといいます。

一族の与次郎という者が中村朝宗の家来となり、中村がのちに伊達と姓を改め、同時に与次郎も原田志摩守光成と名前を改めたことが、伊達一族と原田家の始まりとされています。

原田家は伊達家初代からの重要な家来であり、以来伊達家の重臣として宿老の役割を担う名門の家柄となったのです。

※宿老・・・譜代の重臣で奉行の席が空き次第、相応の人物が居れば奉行になることができる家柄

原田氏が原田城へ拠点を移したのは、14代当主の美濃介の時代です。

その後、15代、16代、17代と伊達家の躍進に貢献し続けることとなります。

第3話「真済僧正と大光院」

原田城には「真済僧正入定の地」という場所があり、そこには500年祭を祈念して五輪の供養塔が建てられました。

供養塔を見ると、丸く削り取られた跡が残されていますが、これは削り取った石の粉が万病に薬効があると信じられたためだということです。

真済僧正は平安時代の人物で、弘法大師 空海の十大弟子の1人であり、真言宗で初めての僧官最高位「僧正」となりました。

真済僧正が置賜にやってきたのは、貞観元年(859)。

小松の山ろくに精舎を立てたのが大光院の始まりといわれています。

大光院には真済の墓があり、毎年2月25日には真済僧正忌法要が行われています。

大光院の創建は貞観元年(859年)で、弘法大師自らが彫刻したとされる地蔵菩薩を安置したのが始まりと伝えられています。

この地は徳一上人の縁の地とも言われ、小石一つ一つに経典の字を書いて積み上げ、卒都婆とし、その卒都婆を「置霊」と呼ぶようになり、それが転じて「置賜」の地名が発生したと言われています。

8月16日に五穀豊穣を願って奉納される「小松豊年獅子踊」も、元々は徳一上人を慰めるために里人が踊ったのが起源とされています。

また、境内には徳一上人の供養塔が建立されています。

第4話「原田城最後の主 原田左馬助宗時 -前編-」

原田左馬助宗時は、永禄8年(1565年)に伊達家の家臣「山嶺安長」の子として生まれます。

幼名は「虎駒(とらこま)」。

彼に転機が訪れたのは、天正10年(1582年)叔父の原田宗政が相馬表の戦いで戦死した時。

主君 伊達輝宗に命じられ、跡取りがいない原田家の相続者として原田家に養子入りし、原田家最後の城主 原田左馬助宗時となりました。

原田城主となった彼は、伊達輝宗・政宗の二代に仕え、戦で常に活躍し勇武の武士として謳われました。

特に伊達政宗とは、主従の関係を超えた友だったとも伝えられています。

天正19年(1591年)、伊達政宗が豊臣秀吉からの命によって、米沢150万石から岩出山58万石に厳封となり、宗時も岩出山へ移動したために、それ以降原田城は主なき城となりました。

第5話「原田城 最後の主 原田左馬助宗時 -後編-」

原田宗時は、伊達者とも呼ばれました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に京都で行われた出陣式にて、第三陣として登場した伊達政宗の軍団の中、宗時は9歳年上の親友 後藤信康と共にきらびやかな姿をして現れました。

いでたちは、長さ一間半(約2.7m)もの大太刀を背負い、大太刀を黄金の鎖で結び、立派な駿馬にまたがっていた、と伝えられています。

京都の人々は、その威風堂々たる姿に「さすがは伊達者!」と称賛の声を送ったといいます。

ここから「伊達者・伊達男」の語源が誕生したといわれます。

文禄2年(1593年)、朝鮮への出陣中に対馬において病没、享年29歳でした。

早すぎる死に伊達政宗は嘆き悲しみ、国風六首という6つの和歌を詠みました。

この各和歌の頭文字を連続して読むと、「ナムアミダブ」と読めます。

また、後藤信康は「友であり、弟であった」と嘆いたといいます。

伊達軍団の帰国後、信康は宗時の遺品の一つである大太刀を譲り受け、家宝としたといわれています。