置賜あれこれ 伊達家と高畠
第1話「はじめに」
高畠町を含む置賜地方は、長きにわたって伊達氏の支配下にありました。
それは、江戸時代の前に伊達氏8代宗遠が奥羽山脈を越えて高畠町に侵入してから、17代独眼竜政宗が宮城県岩出山、そして仙台に移るまで210年余もの間でした。
伊達氏は、元々、現在の茨城県 常陸国真壁郡伊佐の荘中村に住んでいて、中村と名乗っていました。
伊達氏の初代は、中村朝宗という人でした。
時は源氏と平氏の戦い 源平合戦。
源氏の棟梁 源頼朝が兵をあげ、弟 源義経の大活躍もあり、壇ノ浦の戦いで平家をを滅ぼしました。
しかし頼朝と義経の兄弟は不和となり、義経は行方不明。
奥州平泉の藤原氏に匿われていることが判明し、頼朝は平氏に続き奥州藤原氏を打とうと決意し18万人という大軍を率いて攻めてきました。
これが奥州合戦と言われています。
第2話「奥州合戦」
藤原氏は、現在の福島県国見町厚樫山に三重の堀を掘って、阿武隈川の水を引き防御陣を造りました。
また福島市石名坂には、一族の信夫佐藤氏 佐藤元治を大将として源頼朝軍を迎えました。
この戦いに、のちに伊達氏の初代となる中村朝宗が4人の息子を連れて参戦。
石名坂の戦いで敵の大将 佐藤元春治を討ち大手柄をあげました。
この戦いは源頼朝の大勝利となり、奥州藤原氏は滅亡したのです。
戦いのあと中村朝宗は、敵の大将を討ち取った論功行賞、褒美として伊達郡を与えられました。
そして今までは常陸国は長男に与え、自分は次男を連れて伊達の土地に住み姓を伊達と改めました。
初代伊達氏、伊達朝宗の誕生です。
その後、伊達氏は徐々に勢力を広げて支配地を拡大し、伊達氏8代宗遠の時に奥州山脈を越えて高畠に攻めてきたのです。
当時この地を支配していた長井氏を追い払い、高畠にあった高畠城を大事な城の一つとしました。
その後も更に領土を拡大し、以後17代伊達政宗が豊臣秀吉の命令で宮城県岩出山に移るまで210年余りこの地を支配してきました。
第3話「高畠城を築いた理由」
なぜ、50キロ以上といわれた険しい奥羽山脈を越えてまで攻め入り、高畠町の高畠城を本城としたのでしょう。
それは、伊達氏が本城としていた桑折町西山城から置賜に攻め入るのに地理的に一番良かったから、また、この置賜が実り豊かな土地だったからと思われます。
1200年頃、高畠の地は屋代の荘と呼ばれ、摂関家藤原氏の支配地で、荘官 (管理人)は奥州藤原氏でした。
高畠城を築いたのは、奥州藤原氏の3代秀衡のいとこ、日詰五郎李平です。
当時、荘園と呼ばれたのは、豊かな土地だった証拠だとされています。
伊達氏が攻め入ったとはいえ最初は不安定で、平定するまで5年ほどかかったそうです。
そこで、もしもの時には伊達氏の本城桑折町に近く、守るに都合がよい険しい奥羽山脈をひかえ、多くの武士も住める高畠に攻め入ったのです。
その後、高畠城を本城をしてさらに領土を拡大、平定していったのでした。
第4話「高畠と伊達氏」
伊達氏は、親子同士の戦いなど苦しい時もあり、15代晴宗の時代に本城を米沢に移しました。
有名な17代独眼竜政宗は米沢城で生まれています。
この米沢城は、館山にあったようです。
政宗は、生まれは米沢城でしたが、少年時代に伊達氏の菩提寺である高畠町夏苅の資福寺隣の政宗館に住んでいました。
父輝宗が呼んだ資福寺住職の虎哉和尚から、後に政宗の片腕といわれ、白石城主となった片倉小十郎などとともに学問を授けられました。
残念ながら資福寺は、政宗が落ち着いた仙台市北山に移されたため現在は資福寺跡となっていますが、輝宗と殉死した遠藤元信の墓が残されています。
8代宗遠とともに高畠に攻め入った9代政宗は、儀山政宗ともいわれ、17代は貞山政宗と区別されています。
儀山政宗夫婦の墓は、高畠町の野手倉にあります。
また、伊達氏中興の祖といわれた勇猛な武将だったというので、貞山政宗はこの先祖の名前からとったといわれています。
第5話「17代政宗」
独眼竜といわれた17代政宗が、なぜ置賜を去り初代仙台藩主となったのでしょうか。
政宗は天下取りを夢に福島県南部を攻めました。
しかし時世は、本能寺の変で織田信長が討たれ、事実上の後継者となった豊臣秀吉が勢力を拡大していました。
秀吉は、政宗に戦いをやめて自分が攻撃している小田原に来るようにと連絡をしてきました。
ここで秀吉のところに行くということは、秀吉の臣下になるということです。
とても悩みましたが、小田原に行き秀吉に頭を下げ従うことを決断しました。
後に宮城県北部 葛西大崎地区に激しい一揆が起こりました。
これに陰で政宗が支援しているという疑いが出て、秀吉から、今までの伊達家の支配地はすべて取り上げる、そして葛西大崎地区を与えるとの命令が出されました。
210年余も支配してきた伊達郡、置賜郡をから去りたくないと色々運動しましたが、天下人豊臣秀吉の命令に逆らえず、やむなく岩出山城に移りました。
しかし、しばらくして ここは領地の北に寄りすぎて不便だということで仙台に青葉城を築き、ここを本城をし、17代政宗は初代仙台藩主となったのです。