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置賜あれこれ 板谷街道

第1話「参勤交代と板谷街道」

板谷街道とは、福島城下から板谷峠、米沢城下を経て上山城下に至る道路のことです。

そのうち米沢から福島までの区間は、米沢藩にとって参勤交代の際には欠かせない重要な道路でした。

米沢と江戸との間は、約75里(300km)、その移動日数は平均して7泊8日でした。

米沢城と板谷間は、約6里(24km)で1日を費やします。残りは1日10里の行程で進んでいくのが一般だったといいます。

板谷街道は、11月下旬になれば雪も降り出し、豪雪となる厳しい山岳道路となり、他の藩が参勤交代で使用することもなかったため、もっぱら米沢藩が維持管理する道路となっていました。

板谷宿には藩主が泊まる「板谷御殿」が置かれ一行はそこに宿泊したため、板谷は宿場町としても栄えました。

第9代米沢藩主 上杉鷹山が入部した際に通ったのも板谷街道でした。初入部は明和6年(1769)のことでした。

一方で、米沢藩の絹織物などの特産物を江戸へ輸送するための経済路としても、板谷街道は重視されていました。そのため、織物問屋も「板谷街道」の開削と維持管理に力を注いだのです。

第2話「組石や雪舟明神が語る板谷街道」

板谷街道には、文字を刻んだ各種の「組石」や「雪舟明神」というものがあります。

「上杉家御年譜」によると、

参勤交代の行列が江戸を出発すると約7日目で板谷に到着します。

板谷宿に泊まり、翌日に板谷を出発して米沢城下に向かいます。すると板谷峠には猿牽(さるひき)が出て行列の到着を祝いました。

米沢藩の家臣団もそれぞれの場所で出迎えます。

城下に入ると、町奉行は福田、代官は山上などとそれぞれに場所を定めて出迎えたということです。

五十騎と刻んだ組石が、板谷街道にあります。

つまりそこで五十騎組の人たちが大名行列を出迎えたということです。五十騎組というのは、米沢藩初代藩主 上杉景勝の直参の家臣団。大目付、町奉行、勘定頭など藩の重責を担う人たちです。

組外(くみほか)と刻まれた石もあります。

組外とは、関が原の戦いなどで集められた浪人で構成されていました。前田慶次などは組外のリーダーでした。彼等はこの石を中心にして集まり、行列を出迎えたのです。これは他の藩には見られないものです。

板谷と大沢の宿場町には、雪舟明神という石碑があります。

冬の板谷街道は、雪のため道路幅が狭くなり雪崩の起きやすい危険箇所もたくさんあり、事故が起きないよう輸送の安全を願って明神様に祈りを捧げたのです。

平成8年(1996)、板谷街道は日本の歴史の道百選に選ばれ、史跡としての整備も開始されています。

第3話「上杉鷹山の火種と板谷街道」

上杉鷹山が米沢に初入部したのは、明和6年(1769)11月、19歳の頃でした。

行程は、江戸から羽州街道を北上し、福島からは板谷に入り、板谷宿に1泊するというものでした。

雪の降る板谷街道を米沢に向かう行列の様子は絵図にも描かれています。

翌日、約200名の家臣団と共に米沢城下へ向かいましたが、米沢城下が見えてきたとき、鷹山はあまりのすさんだ風景に愕然としたのです。

不安と悔恨の情がつきあげてくる中、鷹山がふと火鉢の灰をかき混ぜると、小さな炭火が残っていました。

鷹山は炭箱から炭を取り出し、その炭に小さな残り火を移しました。そして新たな火をおこし始めたのです。

鷹山は家臣たちに

「今、灰の中に小さな火種があった。これを次に移したらまた新たな火種ができた。

それをまた移す、また移す、これを繰り返すといつかは大きな火となるに違いない。

私はこの小さな火種が、今伴をしてくれているお前達だと気付いた。

米沢には湿った炭、濡れた炭、改革に反対する炭がたくさんあるかもしれないが、1つや2つは火のつく炭もあるはず。

お前達が火種となり、藩士の心に火をつけて皆が安心して住める米沢にしたい。」

と言いました。

家臣たちもこの言葉に決意を新たにし、一行は寒さの中粛々と米沢城下に向かったのです。

第4話「鷹山、平州への敬師の板谷街道」

嚶鳴館は、細井平州が江戸に開いた私塾です。

この塾では、多くの武士、町人、老若男女 区別なく学ぶことができました。

鷹山も14歳からこの塾で学びました。

平州は、全ての層から慕われた理想の教育者であり、鷹山もまた平州を最も尊敬し師と仰ぎ生涯の心の支えとしたのです。

鷹山が米沢藩藩主となってから、平州は3回米沢を訪れています。

距離にすると320km。その行程は、江戸から羽州街道、福島からは板谷街道を通って、約一週間の旅路です。

平州が米沢をはじめて訪れたのは、鷹山が21歳の頃でした。

興譲館という藩校名はその折に平州によって命名されたものです。米沢を訪れるたびに藩校興譲館の生徒に講義を行いました。

3回目の訪問は、寛政8年(1796)平州は69歳でした。

板谷宿に1泊し、翌朝米沢へ向かいます。

鷹山は板谷から米沢に向かう平州一行を関根の羽黒神社で出迎えました。鷹山は尊敬する平州を、涙を流して迎えたのです。

そして普門院に招き、旅の疲れをねぎらったといいます。

明治時代になると、この場面が挿絵とともに日本の道徳の教科書に取り上げられ、全国の子ども達に紹介されました。

第5話「高野長英と板谷街道」

文政7年(1824)、シーボルトは長崎の郊外に、私塾 鳴滝塾を開きました。

高野長英はその第1回生です。そこで蘭学と医学を学びました。

長英はオランダ語にも優れ、シーボルトから塾頭にも任命されるほどでした。

ちょうどその頃、鳴滝塾には米沢藩の医師、伊東昇迪も入塾し、長英とともに3年間学び内科と外科をおさめました。

幕末の政局は激動していて、天保10年(1839)言論弾圧事件として有名な「蛮社の獄」が起こります。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下ってしまいます。

投獄されて5年過ぎた頃、牢屋敷で火災が起きました。

3日以内に戻ってくれば罪一等を命じるという条件で、長英は牢から一時解放されます。

しかし彼はこれを無視し、逃亡の日々を過ごすことになるのです。

長英は、鳴滝塾時代の蘭方医や旧友を頼りながらの逃亡生活の中、福島から板谷街道を通って米沢へ。伊東昇迪を頼りました。

昇迪の元にたどり着いた頃には、長英の顔はただれていました。身を隠すために自ら顔に薬品をかけたのでしょう。

昇迪は医者仲間の堀内素堂にも密かに協力させ、昇迪の弟子で高畠に開業していた医師 高橋嘉善の馬小屋の2階にしばらく長英を匿いました。

その後、長英は再び板谷街道、羽州街道を通り、人知れず江戸に戻ったことになっています。

長英を匿うのに、伊東昇迪、堀内素堂、高橋嘉善などの医師は大変な苦労をし、後には米沢藩から厳重注意も受けました。