置賜あれこれ 井上ひさし
第1話「少年 井上ひさし」
作家・劇作家 井上ひさしは、1934年昭和9年11月旧小松町中小松で、次男として誕生しました。
男ばかり三人兄弟の真ん中で育ちますが、ひさし少年が4歳半のときに父親が病死。
それから母親は一人で3人の男の子を育てていきます。
中学3年になったばかりの春、母親が貯めた財産を持ち逃げされます。
母親は持ち逃げした相手を岩手県一関に探し出し、財産を奪い返し、一家4人は一関に移住。
しばらくして、ひさし少年と弟の二人は、仙台のカトリックの修道院が開設していた孤児院・光ヶ丘天使園に預けられました。
そこで3年半過ごし、児院から仙台第一高等学校に合格。
多感な時期を母親と離れて暮らしたひさし少年、その辛かった想いは小説やエッセイとして作品に書かれています。
第2話「昭和の戯作者井上ひさし」
仙台第一高等学校を卒業した井上ひさしは、東京の上智大学に進学します。
しかし、ほどなく東北人特有の訛りに悩まされたために母親がいる岩手県釜石市に戻り、手伝いなどをしながら図書館通いが始まります。
そこで読みふけったのが「帝国文庫」シリーズの黄表紙、江戸時代の娯楽本でした。
ダジャレや風刺がふんだんに盛り込まれた内容で、これを書いた人を戯作者と呼びますが、のちに井上ひさしも「昭和の戯作者」と呼ばれるようになります。
井上ひさしの作品には必ず笑いが入っていますが、その原動力となったのは黄表紙だったようです。
第3話「ひょっこりひょうたん島 ことばの力」
先の東京オリンピックは1964年昭和39年に開催されましたが、その年から始まったのがNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」です。
当時、子どもも大人も知らない人がいないくらいの人気番組でした。
作者は井上ひさしと児童文学者の山元護久さん。
二人がNHKに寝泊まりまでして毎日台本を書いていたと言います。それが4年半続きました。
みんなが主役のような内容で、ひょうたん島に遠足に来ていた子どもと引率の先生が登場します。
突然島の火山が爆発し、島は海の上の漂流。戻れなくなった子どもたちと先生らがさまざまな事件に巻きこまれていくというお話です。
ひょっこりひょうたん島のテーマソングの歌詞にある
「苦しいこともあるだろさ悲しこともあるだろさ だけどぼくらはくじけない、泣くのはいやだ 笑っちゃおう」
この歌詞は、東日本大震災の被災地岩手県大槌町の人たちに元気を与え続けたといいます。
「ひょっこりひょうたん島」のことばの力ですね。
第4話「作品の中の名文」
「ひょっこりひょうたん島」で名が知られ始めた井上ひさしは、当時コメディアンとして一世を風靡したてんぷくトリオの座付き作家にもなりました。
さらに1969年(昭和44年)、「日本人のへそ」という芝居を書き演劇界にデビュー。
翌年、小説「ブンとフン」で作家デビューも果たします。
1972年(昭和47年)には、「手鎖心中」で直木賞を受賞。当時の選考委員の松本清張からは絶賛、嘱望されています。
以後、戯曲と小説という両輪で猛烈に忙しい人生を走り続けます。
JARO日本広告審査機構(東北地域キャンペーン)「未来に贈ろう、東北のこころ」に使われている一節「人間は奇蹟そのもの」は、戯曲「きらめく星座」の中のセリフです。
「地球にあるとき小さな生命が誕生しました。
これも奇蹟です。
その小さな生命が数限りない試練を経て人間にまで至ったのも奇蹟の連続です。
そしてその人間のなかにあなたがいるというのも奇蹟です。
こうして何億何兆もの奇蹟が積み重なった結果、あなたもわたしもいま、ここにこうしているのです。
わたしたちがいる、いま生きているというだけでもそれは奇蹟の中の奇蹟なのです。
こうして話をしたり、だれかと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひとつが奇蹟なのです。
人間は奇蹟そのもの。
人間の一挙手一投足も奇蹟そのもの。
だから人間は生きなければなりません。」
第5話「井上ひさしと生活者大学校」
井上ひさしが校長となり、毎年川西町を会場に開いていた講座「生活者大学校」。
その時々の社会問題など、専門家の話を聞きながらみんなで考える講座です。
一泊二日の合宿型で、作家が亡くなった後も続いていて、地元はもちろん、全国から200名以上の参加があります。
講座には、毎年井上さんも参加されていました。
あるとき井上さんは知人からこの生活者大学校のことでハガキをもらったそうです。
「バタフライ効果ということをご存知でしょうか。
海峡の北の海辺で蝶々が数羽飛び戯れている。
彼らの羽の動きがあたりの空気をわずかに震わせる。
その空気のかすかな動きが次々と伝わっていって大きな波動を呼び、遂には気圧図も変えて、海峡の南に大嵐を発生させることがある。
これをバタフライ効果といって、近年注目を浴びている理論です。
あなたがたの活動を新聞で読み、この理論を連想しました。」
私たちは蝶々、それならば野山の緑に、浜辺の青に染まって飛ぶ蝶になろう。
そうして一人でも多くの志ある方に加わっていただいて、蝶々の大群となって、日本にいや水惑星地球に緑の大嵐を起こしたいのです。
この21世紀に、私たちは「フツー人の責任」をテーマにどう生きていけばよいのか、それを考え続けていくのが生活者大学校です。