置賜あれこれ 烏帽子山公園
第1話「烏帽子山の成り立ち」
米沢盆地の北部にあたる南陽市とその周辺地域の地質構造は複雑になっています。
赤湯温泉地域では、岩石の割れ目ができて火山性の深い陥没地域をつくり、そこに海底火山の噴火により凝灰岩などを厚く堆積してきました。
また、上野と北町を結ぶ低湿地などで小さい丘陵に別れ、その先端が八幡神社のある烏帽子山となっています。
烏帽子山は、以前「湯の山」と呼ばれていて、明治11年(1879)には湯の山公園ができ、桜が植えられ茶店ができました。
そのころ、烏帽子山公園作りと神域造りが同時に行われる大事業計画が出始めました。
湯の山公園が完成したころ、神社の移転遷座と公園整備の考えが高まる中、敬神講々員千人を確保して、明治18年(1886)から事業に着手しました。
当時、桑畑や茶畑だった湯の山では、次々に神社を新しくする事業が進みました。
5年の歳月をかけて完成した神苑に、明治23年北町八幡沢から湯の山に社殿を新築遷座する事業が終わったのです。
境内には桜が植えられ、毎年花見客で山は黒山のようになり、むしろを敷いたお花見が盛大でした。
神社を中心とした湯の山遊園造成は、当時「偕楽園」と命名されましたが、のちに烏帽子山があることから「烏帽子山公園」と改められました。
第2話「烏帽子山千本桜」
烏帽子山公園には、約28種類、1,000本近い桜が植えられていますが、大部分がソメイヨシノと言われています。
その中にはオオシマザクラも混じっていて、シダレザクラが多いのもこの公園の特徴です。
日本の桜には、7種類~10種類の野生桜が含まれていて、自然交配や人為的交配によって作られた栽培品種が、250種類~300種類あるといわれています。
オオシマザクラやヤマザクラは、種子から発芽させて実生を育てます。
しかし、エドヒガン系品種とオオシマザクラの交配によって生まれたソメイヨシノは、接ぎ木など人の手を介さないと生存できない品種といえます。
つまり、100年も放っておくと、ソメイヨシノはこの世からなくなってしまう恐れがあるということです。
公園の桜は、地元の保存会の方々が日々手入れされている成果が表れ、日本さくら名所百選の地に指定されました。
さらに烏帽子山を起点として、長井・白鷹・を経て赤坂の桜を終点とする「置賜さくら回廊」には、県内外の観光客の皆様に愛されて現在に至っています。
第3話「烏帽子山八幡宮」
寛治7年(1093)、源義家が奥州に下向した折、弟の加茂次郎義綱の兵達が戦いで傷を受けました。
その際、烏帽子山麓から湧き出る温泉に入ったところ、たちまち癒され大いに気勢が上がりました。
これは吉兆だと喜び、赤湯北町の八幡坂に祠を建てました。
源氏の守護神岩清水八幡宮の御分身を勘定し、源氏の白旗を収めて戦勝祈願と領民の繁栄を祈願しました。
明治6年(1873)村社となり、明治12年(1879)に北条郷24ヶ村の郷社となりました。
地域住民の守護神として尊崇も篤く、北条郷の発展と郷社にふさわしい神域づくりが急務となったのです。
昭和期の烏帽子山八幡宮は、細々の神社経営の中で、民心の安定と氏子の人生儀礼を教化するため、氏子崇敬者の寄進によって、昭和47年に参集殿、昭和49年に幣殿の建設が完成しました。
平成14年7月8日早朝、不審火により社務所を除く、本殿・幣殿・拝殿が全焼する災禍に見舞われました。
しかし、先人が英知を集めて建立された御社殿の復興に向け、造営事業を進めるに至りました。
そして、氏子崇敬者の力を賜り、平成17年7月8日、3年ぶりに新宮の竣工に至りました。
第4話「烏帽子山の大鳥居」
明治36年(1093)地区民の崇敬により荘厳となった八幡宮と、多くの石段によって神々しくなった広い境内にふさわしい立派な鳥居を建設すべしとなりました。
石工は、小岩沢の吉田橋を造った吉田善之助、建師は市川良次が指揮をとりました。
八幡宮裏山の石切場より石を切り出し、約2年の歳月をかけて柱と笠木がそれぞれ1本石の継ぎ目のない大鳥居が、そびえるように完成しました。
高さ10.75m、笠石の高さ12.7m、貫石7.65m、太さは柱が85cm、笠石は1mの大きさです。
経費は、1,560円18銭9厘。当時の米1表の値段は6円でした。
当時の日本の社会情勢日清戦争、東北地方の大飢饉などもあり有志寄付も容易ではありませんでしたが、人々の信仰の力によって建立されました。
凝灰岩の石で、柱の継ぎ目なしの石鳥居としては日本一の大きさとなり、平成14年3月25日に重要な建造物として、南陽市指定有形文化財とされました。
毎年4月18日に注連縄保存会によって作成される注連縄のかけかえ神事が斎行されています。
注連縄に使われる藁は60丸で10日くらい前から作り方に取り掛かります。
藁打ちから始まり、次に針金を使用して最初により合わせるもの3本を、針金を中心にして藁を使って作りあげます。
中心の直径は約45cm、周囲150cm、長さ約5m、重さ約300kgにもなります。
第5話「赤湯温泉」
八幡神社縁起によると、寛治7年(1093)源義家の弟、源義綱が出羽の国の乱を平らげんとして清原家衡軍と戦いました。
烏帽子山を拠点として東北に軍を展開した際、神霊のお告げに基づいて山麓の温泉を発見し手傷を負った部下の疼痛を治癒したといいます。
赤湯町史によりますと、正和元年(1312)に米野与惣左エ門が大湯を発見。
天正年間、境主殿が丹波湯を発見し、享保7年(1722)長左エ門が甘湯を発見。
天明4年(1784)斉藤次郎右エ門が森の湯を発見し、4つの源泉を持つことになりました。
その後、各旅館が新しいお湯を求めて掘削を試みたため、旧温泉が害され水位の低下をきたしました。
乱掘戦争を重ねていては温泉全体が危険になると思われたので、大正5年(1916)県令をもって掘削を禁止しました。
町は新しい源泉を探し、旧登記所内に深度150間に新しい源泉を発見し、続いて旧役場地内の森の山を170間ほど堀りました。
しかし、森の山の掘削ですら他の源泉をからしているので困り果て、最後の策として注水工事を決心するに至りました。
昭和27年4月2日注水試験が行われました。
温度も湯量も成分も以前と変わりなく、水は地下水の循環を刺激して活動を促し、水温が上昇するのだろうということでした。
現在は、吉野川の伏流水をくみ上げ、旧農協跡地の旧源泉へ注水しています。