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置賜あれこれ 南陽市の古墳

第1話「南陽市の古墳・遺跡」

 

古墳とは、王様や権力者などの位の高い人物のお墓を指し、遺跡とは、人間の生活や行動の痕跡が見られる場所を指します。

南陽市内では、古墳が13カ所、遺跡はさらに多く確認されていて、これまでの調査では、発見された古墳の多くが4世紀から7世紀頃につくられたと考えられています。

主なところでは、稲荷森古墳、二色根古墳群、蒲生田山古墳群などがあります。

 

今から約1600年ほど前。3世紀頃から7世紀頃、それまでは小さな国の集まりだった日本がしだいに統一され、全国で文化の交流が盛んになっていきました。

この頃に北は東北地方南部から、南は九州地方南部まで、日本各地で前方後円墳が造られるようになりました。

その後、様々な形の古墳が造られるようになり、前方後方墳、円墳、方墳などが発見されてきました。

南陽市の古墳は、古墳時代前期から末期にかけて造られたもので、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の全ての形が確認されています。

 

南陽市内の遺跡では現在も様々な発掘調査が行われています。

赤湯地区にある北町遺跡では、マグロの背骨の一部が出土し話題になりました。

北町遺跡は、約1万2千年前の縄文時代の竪穴式住居の遺跡で、当時から海岸部との交流があったことが推察される発見となったのです。

 

第2話「稲荷森古墳」

 

稲荷森古墳は、昭和初期に新山三郎氏によって発見され、昭和13年に西村真次氏により報告されました。

昭和36年から何度か調査が行われましたが、形が前方後円墳に類似しているとされたものの古墳であるという断定は控えられました。

昭和52年、山形県史編さん室の稲荷森古墳調査団による測量調査が実施され、大型の前方後円墳である事が確認され、昭和55年には国指定史跡となりました。

 

大きさは、全長96m、高さ9.6mで、山形県内では最大、東北では7番目の規模の古墳です。

後円部の直径は62m、前方部の長さは34m、前方部の高さは4mあり、三段構造になっているのが特徴です。

また、後円部には王の棺が埋められていると考えられていますが、横穴式石室が広まる前の古い古墳であるため、掘った穴に木棺を直に埋める、「木棺直葬(もっかんじきそう)」という形式の古墳であると考えられています。

 

稲荷森古墳は、置賜盆地を支配した王様の墓といわれています。

一般的に古墳に存在する埴輪や、葺石、周壕がないことが特徴で、これは造られた時代や地域的な要因からと思われます。

平成に入り、稲荷森古墳の整備工事が実施され、現在は古墳の頂上まで登ることができます。

後円部の頂上からは置賜盆地が一望でき、南側の米沢方面には戸塚山が見えます。

戸塚山の頂上には稲荷森古墳より新しい前方後円墳があり、その石棺には女性の王が眠っていたことから「東北の卑弥呼の古墳」と呼ばれたことがあります。

 

 

第3話「二色根古墳群」

 

二色根古墳群は、赤湯温泉より少し西北、奥羽本線に沿った二色根山の南斜面にあります。

6基の古墳が確認されていて、昭和7年から8年頃に発掘調査が行われました。

それぞれの古墳の中には、和同開珎、銀環、銅環、帯金具、鉄製つば、鞘尻、鞘口、須恵器、土師器など、様々な出土品が確認されました。

盗掘されたと思われる1号墳、4号墳、6号墳では残念ながら何も確認されませんでしたが、これらの出土品は8世紀頃の物である事がわかり、古墳時代が事実上終了した後の古墳群とみられています。

 

中でも一番大きい古墳が2号墳です。

山の斜面に築かれた山寄せ式の古墳で、円墳と考えられています。

内部は横穴式石室で、玄室部と羨道部から構成されていて、玄室部は長さ2.4m、幅1.4m、高さ1.8m。

羨道部は、長さ1.4m、幅0.8m、高さ0.75m。

平割石を積み上げた壁面は、アーチ型になるように積み上げられています。

5号墳では、後の時代に追葬を受けたとみられ、玄室内より中世陶器の蔵骨器、今でいう骨壺が発見されています。

 

二色根古墳群は王様の墓ではなく、有力な農民の家族墓のようなものであったと考えられています。

 

 

第4話「蒲生田山古墳群」

 

蒲生田山古墳群は、南陽市上野 ハイジアパークの北側にあり、およそ10基の古墳が存在したとされています。

二色根古墳群と同じく昭和初期に発見されましたが、当時はエゾアナと呼ばれた1基のみ確認でき、他は開墾などにより消滅していたため発掘調査は行われませんでした。

 

その後、南陽市の保養施設ハイジアパークの建設計画に伴い、緊急発掘調査が実施されました。

平成元年に実施された本調査では、これまでの1号墳に加え2号墳が確認され、その後さらに3号墳、4号墳、5号墳が確認されました。

なお、2号墳は記録保存のために発掘調査は実施されませんでした。

建設区域内にある3号墳、4号墳の調査では、2基ともに古墳時代前期の前方後方墳であることが判明しました。

 

1号墳は、東斜面に造られた山寄せ式の円墳で、大きさは直径約8m。

二色根古墳群の2号墳と同様の胴張り型で、玄室の規模は長さ2m、幅1.17m、高さ1.55m。

蒲生田山古墳群からも多くの鉄製品や須恵器、土師器が発掘されました。

本調査後には、それまでの3号墳と4号墳を合わせて「3号墳」、5号墳を「4号墳」と改め、それまで使用された「蒲生田古墳群」の名称を「蒲生田山古墳群」に改められました。

 

 

第5話「長岡南森遺跡」

 

長岡南森遺跡は、稲荷森古墳の南側に位置し、稲荷森が「きつね山」、南森が「たぬき森」と呼ばれています。

以前より古墳ではないかと言われてきましたが、平成28年度に最新の航空レーザーを使用した3次元測量を行ったところ、161m~168mの、前方後円墳の形をした丘陵の姿が明らかになりました。

 

前方後円墳は、主に後円部の上で祭祀儀礼が行われ、使用した土器は前方部と後円部をつなぐくびれの辺りで発掘される事が多いため、そのくびれにあたる部分を中心に発掘調査をしたところ、土器の破片およそ240片が出土しました。

祭祀儀礼に使われ、古墳である事を示すといわれる「二重口縁壺」も3種見つかり、周囲には濠にあたる周濠も確認されました。

 

現在は、県内最大の稲荷森古墳の近くにあることから、大和政権と繋がりがあった人物が埋葬されていると推察されています。

また、稲荷森古墳は96mと県内最大規模ですが、それをはるかに超える規模であることからも、東北でも最上級の有力者である可能性も考えられます。

このように近年の発掘調査によって、東北最大の宮城県名取市にある雷神山古墳に並ぶ規模の古墳である可能性が高くなってきました。

近年、奈良県の富雄丸山古墳が、同じく航空レーザーによる測量で日本最大級の規模である事が判明しましたが、それに続く発見と言われ、日本考古学界は盛り上がりを見せています。