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置賜あれこれ 熊野大社

第1話「東北の伊勢・宮内熊野大社」

熊野大社は、今から1200年前の大同元年(806)に平城天皇自身の勅命によって再建されたお社で、その歴史の古さと東日本に約2500社ある熊野神社の中でも随一の規模を誇るお社であることから「日本三熊野」の一つとして尊崇されています。

中世において熊野信仰が全国的に広がり、「伊勢へ七度、熊野へ三度」とうたわれ、「蟻の熊野詣」のことわざが生じたほどで、全国各地に大小の熊野神社がまつられました。

この中でも特に有名な三社は、和歌山県の熊野三山、長野県軽井沢の熊野皇太神社、そして宮内熊野大社で、この三社を「日本三熊野」といいます。

熊野大社は、別当坊證誠寺・天台山門の大寺として長く寺籍を有し、真言・羽黒を加え、神社とともに四派により守護され、明治になり熊野神社と改められました。

創立は、国分寺創立の頃と言われています。

また、天皇家との縁も深く、806年の平城天皇ご自身による神社ご再建をはじめ、859年には清和天皇、1156年には後白河天皇の勅命によりたびたび再建されました。

東北各地を行脚し、その足跡を残した慈覚大師もこの神社に参拝し、ご本尊として阿弥陀、薬師、観音の三像と大黒像を収めたと伝えられています。

尚、元寇襲来の際、亀山上皇の勅命によって勅使が訪れ、国難退散の祈祷が行われ、その時の場所が鏡池として證誠殿の脇に現在も残っています。

第2話「太々御神楽と大銀杏」

◆太々御神楽

熊野大社には、全国でただ一社、伊勢神宮から直伝を受けた「太々御神楽」が伝えられ、例年元旦から3月にかけての参宮期間に奉納されています。

そのようなところから「東北に伊勢」とも言われています。

参宮太々御神楽奉奏の創設者は、熊野大社第二十四代、北野猛宮司であり、昭和4年に宮司の学友だった竹田光三氏に相談。今までに例のないことでしたが許可を得て、昭和5年、旧正月から参宮太々御神楽奉奏が始まり、現在に至っています。

熊野大社の御祭神は、本殿がイザナギノミコト、二宮がイザナミノミコト、三宮がスサノオノミコトです。

イザナギノミコトとイザナミノミコトは、神話においてはじめて夫婦の契りを交わし、天照大神をはじめ数多くの神々や万物を生んだ神様です。

このことから、産業全般、家内安全、縁結び、夫婦円満の神様として信仰されています。

◆大銀杏

永承6年(1051)陸奥国六郡を領有した安部頼時が国司の命に背き、奥州は戦火に包まれました。

この前九年の役の際、父である陸奥守源頼義を助けた源義家は、当社に必勝の誓願をそ、その霊験により兵を平定することができました。

永保3年(1083)続いて起こった後三年の役においても、義家は寛治元年(1087)鎌倉権五郎景政を使いとして必勝を祈願しました。

県の天然記念物に指定されている参道右側にある大銀杏は、その際手植えされたものと伝えられています。

尚、この大銀杏は樹齢920年たっていて、根回り7.7m、幹の周囲7.5m、高さ30mあります。

遠方から訪れる参拝者は、立ち止まって大銀杏を見上げていて神社のシンボルといえましょう。

第3話「大鳥居と三羽の兎」

◆権現づくりの大鳥居

明治5年(1872)、宮内村が大火災にあい、村の三分の二が焼失しました。

まさに宮内は火の海に包まれ、当時の消防組織の体制ではどうすることもできず、自然消化を待つのみだったといいます。

参道正面にあった大鳥居も焼け、参道の両側にそびえたっていた杉の大木も生木のまま燃えてしまいました。

氏子民の方々が途方にくれましたが、9年後の明治14年(1881)、大鳥居が再建されました。

以来、現在まで参道の正面として耐えてきましたが、時代とともに120数年を経過し、木造の建造物であったため老朽化が進んでいて倒壊が心配な状態となりました。

そのため、平成12年(2000)に西暦2000年をを記念として現在の権現造りの大鳥居が再建されました。

岐阜県の蛭川みかげ石を用い、高さ9.37m、柱間7.5m、幅4.9m、笠石11.5m、総重量22t、約5,439万円とも言われています。

石造りの大鳥居としては、日本一といわれています。

◆三羽の兎

熊野大社の拝殿や本田裏の彫刻は、江戸時代の様式を伝える貴重な文化財です。

特に本田裏の彫刻には、三羽の兎が隠し彫りされていて、三羽全ての兎をすべてっ見つけると幸せになれる、良縁に恵まれると言い伝えられています。

三羽すべてを人から教えてもらうとご利益がなくなるともいわれています。

第4話「舞楽に使う面と拝殿前の釣り鐘」

◆熊野大社に残る陵王面(舞楽面)

宮内熊野大社に残る「陵王面」は大変貴重なもので、東北に残る王面の中でも古いもののようです。

文献が残っておらず、いつ頃のものかは定かではありません。

昭和49年発行の「東北の熊野」によると、「社の宝に江戸時代後期の作と伝える姥面があり、学者によっては室町時代の作品とも言っている」と記載されています。

この姥面とは、陵王面のことです。熊野大社で古くから山姥の舞に使用されてきたため、一方では「姥面」と呼ばれていたのです。

山姥の舞は、熊野大社に残る稚児舞とも関連していて、高畠町の阿久津八幡神社より伝えられたといわれています。

大正15年正月から参宮が始まり、その時から拝殿内でこの山姥の舞が奉納されるようになり、その時使用されたのが、陵王の面だったということです。

◆拝殿前の釣り鐘

寛永3年(1626)、安部右馬之助綱吉が納めたものであり、大銅は大願主、安部右馬之助綱吉(530貫目)、吉見郡奉行(50貫目)、北条郷中(20貫目)、合計200貫目(2250kg)とあり、素晴らしい釣り鐘の鐘の音とともにおくまん様の鐘として、現在も親しまれています。

第5話「北条郷代官 安部右馬之助による宮内の町割り」

昭和42年(1967)宮内町、赤湯町、和郷村が合併して南陽市になりました。

南陽市の範囲は時代によって多少の異同はあるものの、ほとんどそのまま「北条郷」に重なります。

熊野大社は、北条郷の総鎮守です。

北条郷代官 安部右馬之助綱吉は元亀元年(1570)越後の国で越後安部の里城代、菅原内膳の子として生まれました。

江戸時代の初期、宮内に移られた代官は、北条郷内の文化発展に尽くされた偉大な人物でした。

当時は、お社の周辺には杉の大木が並び、参道とともに南方、米沢から吉野の小滝を抜け、村山方面に通じる道路で栄えていて、これを現在の宮内の町に区画されました。

現在の宮内の町で十字路になっている箇所はなく、曲がり十字路となっています。

これは、外から敵が攻め入っても、外部から町の様子が見えないように配慮された造りになっています。

そのほかにも、熊野大社の再建に力を注いだり、産業関係に尽くしたりして郷内の発展に尽力し、現在の南陽市礎を築きました。

正保3年(1646)77歳でこの世を去りました。

南陽市宮崎の綱正寺にお墓が建てられています。