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置賜あれこれ 亀岡文殊

第1話「日本三文殊 亀岡文殊堂を歩く」

まほろばの里 高畠町亀岡。この地域は昔、屋代郷 文殊寺村と呼ばれていました。

今から1200年前、本尊の文殊菩薩は、中国 震旦国五台山より伝来。

大同2年(807)伊勢の国 神路山に安置されてあった文殊菩薩を、奈良東大寺住持の徳一上人が今の地に移したのが始まりといわれています。

昔から「知恵の文殊」として幸福と知恵を授けることを本願として、3年お参りすれば必ず良い知恵が身につき、どんな願望でも達せられ、子どもが良く育ち、子孫にも恵まれるといわれています。

また、身体堅固、厄払い、家内安全、交通安全、商売繁盛・・・

特に試験などの合格と学徳成就の守護神として、県内外からの祈願者が絶えません。

本尊の「文殊菩薩獅子像」は秘仏とされ、文殊堂中央の厨子内に安置されています。

第2話「別当大聖寺と日本三文殊」

文殊堂をお守りしているのが「別当大聖寺」です。

松高山大聖寺といい、宗派は真言宗智山派、京都智積院が本寺です。

徳川時代は、「天下泰平・国家安泰」の祈願所としてとして、徳川5代将軍 綱吉から14代 家茂まで御朱印百石を賜り、東北の名刹となっています。

また、皇室の勅願厚く勅願所として命ぜられ、明治14年の明治天皇東北巡業の際は、有栖川殿下が代参詣されています。

以来、丹後 切戸の文殊、大和 安部の文殊とともに日本三文殊といわれています。

いずれも中国五台山の文殊菩薩を勧請したと伝えられています。

大聖歓喜天

今から約1200年前の大聖寺創立当時から文殊菩薩とともに伝わったといわれ、現在は本坊の仏殿に安置されています。

歓喜天は「お聖天様」とも言い、福を祈り夫婦間の敬愛を祈ることを通例としてあります。

一度このお聖天様を拝めば、七代の福徳を一代に集め、どんな願望も必ず叶えられるという仏尊です。

武士や実業家の崇拝が多いことで有名でもあります。

第3話「鐘楼堂と観音堂・亀岡念仏踊りと待定上人」

文殊堂の境内に鐘楼堂と観音堂があります。

建立したのは「待定坊」という僧でした。

待定坊は、現在の天童市蔵増にあたる最上蔵増村の出身。

姓は東海林、家は農家で、母と妻子があったそうですが、谷地誓願寺で無能和尚の説法に触れ33歳で出家。念仏行者となり自らを「待定」と称しました。

待定坊は元々温厚柔和な性格でしたが、荒行を積むこと幾十度。高山・霊山で登らなかった山はなかったといいます。

こうして仏につかえ、文殊堂奥の院にこもって衆生を済度したのでした。

(衆生済度・・・仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し悟りの世界に導くこと)

待定坊が41歳のとき、文殊堂には鐘楼と観音堂がないことに気が付き、これらの建立に努めました。

その間、自分の身を切り取って87ヶ所の修行地におさめるなどの大変な苦行をもって、一切私欲にあらざることを示しました。

それらの努力が報いられ、集まった信者の数は4万千人余。

多くの浄財も集まり、享保15年(1730)7月に鐘楼堂が、翌年の6月に観音堂が建立されました。

その1ヶ月後、待定坊は鐘楼堂そばの洞窟で生きながら入寂しました。

享年47歳でした。

入寂の際、十念を唱えていたそうで、その声は21日間聞こえ続けていたといいます。

境内にはわずかの隙間もないほどに衆生が集まり、代官が所持警戒にあたったそうです。

人々は待定坊1周期の供養のために集まったときに大念仏屋代郷百人講を組織し、以降毎年7月17日に念仏踊りを行いました。

現在も続いています。

第4話「極重悪人碑と文殊堂安置物」

文殊堂に向かう参道右側に「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた大きな石碑が建っています。

これは、安政7年(1778)大聖寺38世 宥長(ゆうちょう)の代に念仏講中900人余の人々によって建てられた「六字名号塔」です。

碑の側面には

 極重悪人無他方便(ごくじゅうあくにんたにほうべんなし)

 唯称弥陀得生極楽(ただみだをとなえしょうをごくらくにえ)

と刻まれています。

「世の人々は悪人でさえ往生できる。まして善人の往生は当然のこと」と説かれ、これは碑が「極重悪人碑」と呼ばれる所以です。

厳しい年貢の取立てに苦しんでいた屋代郷民のを救わんとして一身を捧げ、お上から重悪人とされた 高梨利右衛門に重ね合わせ、その供養碑としてこの2行を読みとったのであろうともいわれています。

大黒天

今から約1200年前に徳一上人によって作られたと伝えられ、文殊堂傍らに安置されています。

昔から「生き大黒」や「走り大黒」と呼ばれ、家内安全・商売繁盛・五穀成就の神として霊験きわめてあらたかです。

毎年12月9日の例祭で、大黒遊びとして村の若者が大黒天をお堂から出して、文殊堂の廊下と参道を転がしたものですが、不思議と怪我をしたものもなく、また仁王門の下には決して下りなかったと言われている秘仏です。

この大黒天を両手で持って「軽くなりたまえ」と念ずれば次第に軽くなり、「重くなりたまえ」と念ずれば次第に重くなると伝えられています。

この大黒天は、願望達成の時には軽く持ち上げられるといわれています。

第5話「亀岡文殊堂と伊達政宗(梵天丸)誕生の逸話」

伊達政宗の父 輝宗と結婚したばかりの義姫は男子の誕生を願い、亀岡文殊堂の長海上人を訪ね、湯殿山に祈願を試みました。

長海上人は湯殿山に登り祈願し、その証拠として幣束を湯殿の湯に浸し持ち帰り、義姫の寝床の屋根に安置しました。

ある夜、白髪の老僧が枕元に現れ「姫の体の中に宿を借りたい」と頼みます。

驚いた義姫は「夫の許しを受けてから返事をいたします」と答えました。

義姫はこれを輝宗に伝えると「これは瑞夢である。再びこのようなことがあれば許すように。」と喜びながら義姫に言いました。

翌夜、再び老僧が枕元に現れます。

義姫は「体内に宿を貸しましょう」と伝えると、老荘は幣束を授け「体の中で育てよ」と言って立ち去りました。

それからまもなくして義姫はめでたく懐妊し、伊達家17代当主 独眼竜 政宗が誕生しました。

修験道では幣束のことを「梵天」といいます。

政宗の幼名「梵天丸」は、このことから名づけられたといわれています。