置賜あれこれ 安久津八幡神社

—–  安久津八幡神社  —–

 

第1話「安久津八幡神社」

 

貞観2年(860平安前期)、慈覚大師の東北3千仏建立の1つとして、地元豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりといわれています。

安久津八幡は、康平年間(1058~1065 平安後期)に源義家(通称八幡太郎義家)が奥州平定のために、戦勝祈願として鎌倉鶴岡八幡をこの地に勧請したと伝えられています。

 

中世以降は、長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、幕府直轄地と支配者が変わるとともに、安久津八幡神社も大きく変化していきました。

特に南北朝から室町時代においては、伊達氏によって厚く保護され「東の八幡」と呼ばれていました。

 

その後、社領回復運動や別当寺の無住状態の中で、何度も社殿や寺院が焼失。徐々に衰退の道を辿りました。

そんな中で、本殿や三重塔など今も残る主要な建造物が建てられたのもこの時代です。

 

近世まで神仏習合の聖地であった安久津八幡神社は、明治期に神仏離令によって寺院がなくなりますが、一部の仏像はは亀岡文殊の別当、大聖寺に移され現存しています。

 

安久津八幡神社は、長い歴史の中で度重なる火災により、その度に宝物や記録が失われてきました。

中でも、明治末の金蔵院の火災は、それまでかろうじて難を逃れてきたもの全てが焼けてしまいました。

このような変遷を辿る中、安久津一山の社人、衆徒と地域の人々は、「延年」「流鏑馬」「青竹ちょうちん祭り」につながる「お旅の神事」などをまもり、今に伝えています。

 

 

第2話「安久津八幡神社 本殿」

 

安久津八幡神社は長い歴史の中で何度も火災に遭い、その度に記録などが失われてきました。

わずかに残る神社縁起書や棟札を見ると、明応9年(1500)、伊達13代 尚宗が再建した記録が最古として7度焼失、その度に再建されてきました。

現在の本殿は、寛保3年(1743)に焼失したのを、宝暦5年(1755)米沢藩主9代上杉重定の代に再建されたものです。

 

本殿は、三間社流造のかやぶき、軒組みは和様出三斗といい、外面には朱が残ることから、本来は鮮やかな朱色で豪華絢爛な姿であったと考えられます。

本殿は、優れた手法によって江戸時代を代表する建物として、昭和30年に県の指定有形文化財となりました。

 

もともとの本殿は、現在の場所よりも北、八幡山中腹にありました。

その名残として、現在の本殿後ろに参道や堀跡、旧本殿跡などを見ることができます。

 

 

第3話「舞楽殿」

 

舞楽殿は、安久津八幡神社に残る建造物の中では最も古く、室町末期頃に建立されたものと考えられています。地元では「神楽殿」と呼ばれていました。

 

この舞台では、毎年5月3日の春の例大祭で倭舞と田植舞が、毎年9月15日の秋の例大祭で延年が奉納されます。

本来、延年は平安時代の終わり頃から寺での法要などで舞われていたと言われています。

舞は、社人 大地権太夫が「一子相伝」として代々世襲してきましたが、平成25年に途絶えました。

現在は、安久津八幡神社文化財保存会が45代として舞を継承しています。

 

舞楽殿は、昭和30年県指定有形文化財に、安久津延年は昭和63年高畠町指定無形民俗文化財となっています。

 

 

第4話「三重塔と大乗妙典石経塔」

 

三重塔

三重塔は、安久津八幡神社の境内、三島池の中島に建つ置賜地方唯一の方三間層塔です。

 

初代三重塔は、寛永2年(1625)年、米沢の豪商 鈴木十左衛門氏、高畠の鈴木平右衛門氏が施主で建てました。

その後、寛政2年(1790)には烈風によって倒れたため、再建し寛政9年(1797)に完成しました。

昭和になってからも屋根や欄干の改修、相輪の入れ替えなどを行っています。

 

本来、三重塔は寺院伽藍のひとつですが、明治期の神仏分離令によって本社内の寺院が廃絶しました。

その後火災などで失われましたが、三重塔のみが残りました。

 

大乗妙典石経塔

江戸時代、天保の飢饉で毎年のように凶作が続き、餓死者が出るほどでした。

厳しい生活の中、幕府の対策も不十分だったため、各地で農民による一揆や打ちこわしが起こり荒れた世の中となりました。

 

飢餓が続いた頃、村民はこの状況から脱却するために河原から小石を拾い、お経を一文字ずつ石に書き埋めました。

経文を石に書くのは紙に書くよりも数倍の時間がかかりますが、より多くの人が関与できるということで石経が行われるようになりました。

 

石経を行った村人たちは皆で励ましあい、餓死者や流行病で亡くなった人たちの供養にと、安永6年(1777)大乗妙典石経塔を立てました。

大乗妙典塔とは、自分よりもまわりの人に幸福になってほしいと願う仏法のことです。

それからは、流行病も徐々におさまり、村々には少しずつ活気が戻ってきたと伝えられています。

 

 

第5話「厳島神社と青竹ちょうちん祭り」

 

厳島神社弁財天

平安時代後期、屋代庄一帯(現在の高畠町周辺)は、奥州平泉藤原氏の一族が治めていました。

その頃建てられた鐘ヶ城の鬼門に、陸奥国金華山より分霊し祀ったのが「弁財天」の始まりといわれています。

 

その後、室町時代には、伊達家14代当主植宗が、領内の家内安全と豊穣を願い、安芸の国(現在の広島)厳島大社より分霊、同じく鐘ヶ城に安置。

幕府直轄地や織田領主の時代を経て、明治20年には厳島神社として現在の地に移りました。

 

弁財天は弁天さまとして親しまれ、歌舞、弁財、財福の神様、また七福神唯一に女神として、女性の健康、長命、美、恋愛成就の神様として多くの信仰を集めています。

 

青竹ちょうちん祭り

青竹ちょうちん祭りは、地方色豊かで古い伝統をもつ由緒あるお祭りです。

その昔、安久津八幡宮の白木の神輿が、毎年8月15日に総代同士の口上が行われ、高畠厳島神社に遷座「お仮屋」としました。

その際、道筋の家々では、近くの屋代川周辺に茂る竹を採り、それぞれに赤いちょうちんを提げて神輿の送迎をしたといわれています。

 

現在、毎年8月15日には、町の中心街に数基の神輿を集め、宮司による祝詞奉納後、神輿祭りが行われます。

16日には、夕方から祭りの花形である民謡パレードがスタートします。

花笠音頭や高畠音頭に合わせて多くの人々が青竹の下で踊り、賑やかな祭りとなっています。

 

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