置賜あれこれ 上杉鷹山

 

—–  上杉鷹山  —–  

 

第1話「幼少期から上杉家の養子に入った時代」

 

上杉鷹山は、疲弊した米沢藩の財政改革や殖産振興、学問の奨励などを行った人物です。

 

上杉鷹山は、宝暦元年(1751)7月20日、日向の国(現在の宮崎県)高鍋藩藩主 秋月家の次男として、江戸麻布の屋敷で生まれ、幼少の頃の名前は松三郎、後に直松と改められました。

祖母は、上杉綱憲の娘 豊姫筑前秋月藩主、黒田長貞に嫁いだ人物です。

松三郎(鷹山)が7歳の頃、母春姫が35歳の若さで亡くなり、幼少の頃は、高鍋藩の家老 三好善太夫に「人間の道、道徳」について厳しく指導されました。

当時、上杉家には次男がなく、1760年、祖母の強い勧めで10歳の時に上杉家9代当主 上杉重定の養子となり、名前を直丸と改めました。

 

明和3年(1766)16歳で元服し、徳川10代将軍 徳川家治の一文字を拝領し治憲と名乗り、翌年 上杉家10代当主、米沢藩9代藩主となりました。

鷹山と名乗ったのは、総髪した52歳の頃です。

 

 

第2話「藩主就任時の米沢藩の財政事情」

 

米沢藩は、先祖に戦国時代の英雄 上杉謙信を戴く天下に聞こえた名藩でした。

上杉鷹山が藩主になった頃は、財政困難の危機に瀕し、巨額の借金があり、鷹山は借金返済と領民の生活安定のため、ただちに藩の財政改革に着手しました。

 

藩主としての決意として、17歳で藩主になった時に決意を表した最初の和歌があります。

「受けつぎて 国の司の身となれば 忘れまじきは 民の父母」

 

鷹山の師、細井平州が鷹山に教えたことに、藩主としての心得「君主道」があり、平州は、

「君主は一国万民に天として戴けるもの。天のような徳がなければならない。天の心を自分の心として、人民の父母となることが人君の道なのだ」

と教えました。

鷹山は、この教えを肝に銘じ、これを実行に移すことは藩主としての責任であり、使命との思いで詠んだのがこの和歌でありました。

 

また、大倹約による財政再建の決意を、上杉家の守り神春日社と米沢の鎮守 白子神社に「誓詞」として奉納しました。

この1ヵ月後、鷹山は「大倹令の実施」を表明した誓詞を白子神社に奉納しました。

 

2社に奉納されたものは一対として考えるべきで、

春日社に奉納された文は、藩主としての心構えであり、

白子神社に奉納された文は、すぐに行うべき大倹約の実施を表明したものとなっています。

 

鷹山は目に見えない神に向かって、米沢藩の絶対の再建を一生涯の責任としました。

そして、20歳で米沢へ初入部して72歳で生涯を閉じるまで、一汁一菜、木綿の着物で過ごし、厳しく自らを律したのでした。

 

 

第3話「殖産振興と大倹約」

 

1、新産業の開発

・田畑の開墾

・桑の木(養蚕~機織の導入)米織のはじまり

・楮の木(和紙の製造)

・漆の木(ろうそくの製造)

 木は各100万本栽培しました。

・小野川温泉での塩田の開発

・農業用水路 黒井堰の開発

・穴堰の開発(飯豊山中にトンネルを堀り、水路の活用)

・毛筆の製造、農民の副業におたかぽっぽの製造 など

 

2、大倹約令を布達

・仕切り料(生活のための俸給)1500両から208両に減額

・食事は一汁一菜

・衣服は木綿を着用

・奥女中50余人を9人に減少

・藩士間の盆暮れの虚礼を廃止 など

 

鷹山亡き翌年(1823年)12代上杉齋定時代、巨額の借財返済の目途がたちました。

 

 

第4話「名言」

 

上杉鷹山は多くの名言を残しています。

 

1、受けつぎて 国の司の身となれば 忘れまじきは 民の父母

鷹山が17歳で家督を継ぎ、藩主に任命された時に決意を詠んだものです。

 

2、なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

やろうと思えば何でもできる。できないのはやろうと思わないからで、歩き続ければ目的地に着くことができる。できないのは自分の努力が足りないからである。やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのである。

鷹山が自分の子どもや近習に教えたといわれています。

 

3、伝国の辞

一、国家は先祖より子孫へ伝え候 国家にて我私すべき物にはこれなく候

米沢という国家は先祖から受けて子孫に伝えていかなければならない。

藩主といえども自分勝手に我儘なことはしてはならない。

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

領民は国家に属している人民であって、牛馬のように酷使してはならない。

人間として差別することなく平等に扱いなさい。

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

領民のために藩主がいるのであって、藩主のために領民がいるのではない。

君(藩主)あ権力者ではなく、責任者である。

 

鷹山が35歳で藩主の位を上杉治広(10代藩主)に譲るときに藩主としての心得を伝授したものです。

 

 

第5話「上杉鷹山を取り巻く人材と教育」

 

1、鷹山が、幼少時代から上杉家に入るまで

・高鍋藩 藩主 三好善太夫

人間道徳を厳しく指導した人物

2、鷹山が上杉家に入ってからの指導者

・米沢藩 藩医 藁科松伯

・儒学者 細井平州(愛知県東海市出身)

鷹山が14歳の頃から指導。鷹山の生涯の師で米沢には3回訪れている。藩校興譲館の命名者。

3、財政改革時の補佐役

・莅戸善政   ・竹俣当綱

・黒井半四郎(黒井堰や穴堰の開発、創設を行った。)    ・神保蘭室

 

上杉鷹山は「教育は国を治める根本」を信念としました。

細井平州の指導で藩校 興譲館を創設。「実用の学」を重視した教育方針で、江戸や長崎への遊学を奨励、医学校「好生堂」を設立し、蘭学を導入するなど「国家発展の根本的な基礎は教育である」との信念で多くの人材を送り出しました。

 

鷹山の諸改革への賞賛として、

天明7年(1787)幕府から名君として表彰れました。

また、アメリカの35代大統領 ジョンFケネディが、日本の政治家で最も敬愛する人は上杉鷹山と答えています。

 

鷹山は神様として、明治4年に上杉神社に上杉謙信とともに祀られ、その後明治35年、松が岬神社に祀られました。

墓所は、上杉家歴代当主の墓所である上杉家廟所となっています。

 

 

 

 

 

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